4月に出た秋永真琴さんの新刊『森島章子は人を撮らない』を読みました。それぞれ語り手/視点の異なった5章から成る、連作短編集です。
「フォトジェニック」「ファインダー越しの、」はカクヨムや雑誌掲載時に読んでいたのですが、「単焦点トランスレーション」「ぼくのポートレイト」「露光」は今回うれしい書き下ろしであり、初読でした。それぞれ感想を綴りたいと思います。ネタバレがあるので未読の方はご了承ください。
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「フォトジェニック」
街並みは青っぽく染まっていた。陽が昇りきるまでの数十分間だけ存在する、暗くもあり明るくもある水の底みたいな世界を、僕たちはゆっくりと踏みしめるようにして進んでいった。
風はひんやりとしていて、札幌から短い夏が去ったことを告げていた。
夜と朝のあいだ、夏と秋のあいだ――境界線上の時間にふわりと現れた、幻のようなひとときだった。
気持ちのすみずみまでいっさいの不安がない、ほとんど神秘的な心地だった。過去からも未来からも隔たった純粋な現在を、僕も章子も無心に受け止めていた。
ここですよね。すばらしい。本当に素晴らしい。9年前、初めて読んだとき震えた、というか浸りましたが、今回も浸りました。私は東北に住んでいるので、札幌ほどではありませんが北国の夏の終わりのニュアンスはよく分かります。あるんですよね、ごく短い時間ですが、夏と秋の境界線上の時間が。下手すれば1年のうちに数時間かもしれない。体感気温の話だけではなく、外気の匂い、虫の声、空気の密度、夜の暗さの質感、そういったものが変わる境目。一つの季節が終わる。そんな揺らぎに、夜と朝の境界が、過去と未来の境界が、なにより先輩と章子、二人の関係値の境界までもが重なったことにより生まれた、二度と再現できない、ほかの世界線のどこにもない、美しい時間ですよね、これは。本来は、空気的にはセンチメンタルな数時間だったと思うんですが、恋愛の、というか先輩の満たされた感情が、いろいろなものを包み込み、ある種の全能感、神秘性にまで到達しており、寂寥感が無いところが面白い。
「あいだ」「境界」ということは、言い換えれば、どちらにも回収されない、何にも組み入れられない、今ここにあるもの、今ここにしかないもの、ということだと思います。大切なもの、美しいものだからこそ「何にも回収され得ない」と感じるのか、あるいは、何にも回収されない唯一無二なものだからこそ美しく大切に思えるのか。ここは常に考え続けたいテーマでもあります。
ところで先輩。先輩は頑張ったよ、ほんとうに。この物語を読み終えた人なら全員がねぎらってくれるよ。まじで。異性として、恋人として誠実に章子に向き合った。君じゃないと引き出せなかった章子の言葉や行動があったよ、きっと。他の語り手には与えられなかった変化を章子に与えたよ(別に変化を与えなきゃいけないという訳ではないのだが)。絶対みんな君のことは忘れないよ。サッポロビールで慰労会をやろう。
「ファインダー越しの、」
最初に読んだとき「わー!森島章子の観察者があらわれた!すげえ、折原みらい、か。正直な人だ。好感は持てる。」と思ってたら、途中で本当に「森島章子ウォッチャー」というそのままのフレーズが出てきたので、笑ってしまった。みらいもまた、全力で章子と対峙した人物の一人。同じコミュニティ、性別も年代も同じ、という立場ならではの角度で章子に迫りましたね。なにより、終盤の玄関ホールでの激闘がハイライトすぎる!圧巻!いや、ここは秋永先生の表現力ですが、読んでいると本当に自分もホールにいて、まさに目の前で二人の対話を見ているような感覚になるのです。気づけば当事者に「なっている」。章子やみらいの顔も、どんなつくりの顔なのか、なぜか知っている気になっている。いや、もはや「知っている」。なんだこれは。スタンド能力なのか?とかく、読み手を当事者にする力がすごいのです。ところでなんというか、みらいと章子の対話は読んでいて「殴り合い」のような感触があります。全編を通して、折原みらいは章子に対して「最もステゴロで闘った選手」という認識です。
「単焦点トランスレーション」
読み始めは一番ハラハラした。この会社員兼小説家は話の中で間もなく章子と接することになるのだろうが、果たして彼女にとって章子はどう映るのか?みらい以上に反感を持つのではないか?丸く収まらないのではないか?などと思ってしまったので。しかしまあ杞憂でしたね、結果的には登場人物の中で章子が一番心を開く相手になっている。小説家であることと、読者にやたら呼びかけることから、おお!作者が物語に降臨したのか!ある種の翻訳家として!と思わせてくれるのもまた面白いです。
「コヅカさんは面白いのかもしれませんが、できあがる写真は同じです。他の方でも。ならば、あえて被写体に向いていないわたしでなくても大丈夫でしょう」
呼吸が止まった。私の。まじかよ、この子……。
ここやばいですよね。切れ味、殺傷力。残酷な因果を躊躇なく突きつける女。もしかしたら章子は実は編集者に向いているのかもしれない。作家や編集長と喧嘩になりそうですが。いやあ、しかしですよ、それをはるかに凌駕するのが、狸小路八丁目のワインバーでの沙織と章子での魂のやり取り。敬意、畏怖、内省、好意、怒り、理解、さまざまなものを含んだ魂の交差。会話の内容が本質に切り込みすぎて、お互いに痛恨の一撃をもらい過ぎています。読んでいるこちらも血が流れます。でも、ようやく章子の写真の魅力を言語化する、世界に「翻訳」してくれる人物が現れたんだ!という喜びが読んでいてありました。第1章、第2章では見られなかった章子の新たな部分を引き出した新井沙織、さすがだ。
「ぼくのポートレイト」
これなんですけど、最初は主人公が中学生ということで、あまり話の中に入っていけないなと思ったんですよね、自分が。なんていうか、少年の観点の解像度でどこまで章子に接することができるのかな?と。しかしこれもまあ、前話と同様に杞憂でした。みつきくんは中学2年ながらも深刻に自己と世界の間の不協和音に苦しんでおり、その音を消すために自傷にまで行き着いてしまったほど、いわば「真剣(セメント)」だった。それゆえに章子を捉える眼があったのだ、と思いました。自傷するたびに世界との不和の証が刻印されてしまうのが、また痛ましいのですが…。私がみつきくんを「やるな」と思ったのは、部屋で章子に「先生は、弱い男は嫌いですか」と質問した場面で、章子が「いいえ、それが人を嫌う理由にはなりません」と答えたときに「むかついた」ところです。微塵も救われず、「むかついた」。いいね。いいよ、みつきくん。
そして、章子が例外的に「人を撮った」このシーン。
身体をぼくのほうに傾けて、レンズを傷跡に向ける。
「・・・・・・久しぶりだな」
そう森島先生はつぶやいて──
ここ、剣豪が久しぶりに刀を抜いた、みたいな凄味がないですか(笑)?いくら中学生相手とは言え、今回は最初から最後まで達人感がすごいよ、章子。「森島章子・破」のようなものを感じます。
(状況は特殊ではあるものの)ついに章子が人を撮るシーンそのものが描かれた。そして、撮られた側は傷つくのではなく、自分を認め、前に進むことができた。良い意味で予想を裏切ってくれた、重要な意味を持つ章でした。
「露光」
いよいよ最終章です。章子の小学生時代のエピソードから始まり、ああ、ついに章子の過去が、「いったい何があったのか」が明かされるのだろうな、という予感に包まれます。みらい、沙織、先輩(の影)、みつき君...といったように前章までの人物が続けて登場するので、内心「これはまるで『導かれしものたち』のようだ!ひょっとして裏テーマはドラクエⅣだったのか?つまり先輩はライアン、みらいはアリーナ、沙織はトルネコで、みつき君はまさかのミネア&マーニャだったのか?」などと思いました。(絶対違う)
後にシリアスな展開が待ち受けている空気もありながら、この章は集大成のわちゃわちゃ感もあって、笑わせてくれるシーンも多いです。章子と沙織の「会社が無断欠勤になってしまいます」「もう少し歳上の人間を信じてくれないか」とか、具体と抽象さんの「長いので具体と読んでいただければ」とか。おい、具体でいいのか?もう少し粘って「具抽」にすれば?などと心の中でつっこんでしまったり、めちゃめちゃ楽しめました。
そして。ついに「あの人」との再会。皆川先生は似てますよね、章子に。何が似てるかというと、おそらく事物の認識における、入力と処理と出力が、です。似てるからこそ、章子がここまで乱れたのだと感じました。彼女がこのように感情を露わにし、動揺している姿を見て、読んでいるこちらも激しく動揺してしまった!
しかし皆川先生はよくぞ来てくれました。そして、よくぞスマホにあの写真を入れてきてくれました。章子の展示作品を観て、世界は厳しい(恐い)ことに変わりはないが、章子が他者とのつながりの中で世界の美しさを捉え直していることをきちんと言葉で伝えてくれた。そして、あの写真は確かに刃ではあったが、刃だけではなかったのだ、なにものにも代えられない、世界の瞬間の美しさを切り取ってくれたのだ、ということを先生として、大人として伝えてくれた。
もし、このとき皆川先生が個展に足を運ばずに章子との再会がなかったとしたら。なかったとしても、すでに沙織やみらいたちがいるので、人を撮ることをリスタートしていたとは思います。が、やはり過去への後悔がある以上は、何度も迷いが出た(出る)のではないかと思います。この皆川先生との全力の対話ができたおかげで、今後彼女は「怖さ」をいっそう自覚しながらも、力強く踏み込んで世界を、人を撮っていけるのではないか。そのように感じました。
『森島章子は人を撮らない』。たしかに人を撮らない。でも、先輩、みらい、沙織、みつき。彼女に接した者たちはみんな、私たち読者に、ありありとその「生」を現像されてましたよね。
やっぱりそうなんだ。
森島章子は人を撮らない、されど人を映す。





