感想『森島章子は人を撮らない』

4月に出た秋永真琴さんの新刊『森島章子は人を撮らない』を読みました。それぞれ語り手/視点の異なった5章から成る、連作短編集です。

 

「フォトジェニック」「ファインダー越しの、」はカクヨムや雑誌掲載時に読んでいたのですが、「単焦点トランスレーション」「ぼくのポートレイト」「露光」は今回うれしい書き下ろしであり、初読でした。それぞれ感想を綴りたいと思います。ネタバレがあるので未読の方はご了承ください。

 

 

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「フォトジェニック」

 街並みは青っぽく染まっていた。陽が昇りきるまでの数十分間だけ存在する、暗くもあり明るくもある水の底みたいな世界を、僕たちはゆっくりと踏みしめるようにして進んでいった。

 風はひんやりとしていて、札幌から短い夏が去ったことを告げていた。

 夜と朝のあいだ、夏と秋のあいだ――境界線上の時間にふわりと現れた、幻のようなひとときだった。

 気持ちのすみずみまでいっさいの不安がない、ほとんど神秘的な心地だった。過去からも未来からも隔たった純粋な現在を、僕も章子も無心に受け止めていた。

 

 

ここですよね。すばらしい。本当に素晴らしい。9年前、初めて読んだとき震えた、というか浸りましたが、今回も浸りました。私は東北に住んでいるので、札幌ほどではありませんが北国の夏の終わりのニュアンスはよく分かります。あるんですよね、ごく短い時間ですが、夏と秋の境界線上の時間が。下手すれば1年のうちに数時間かもしれない。体感気温の話だけではなく、外気の匂い、虫の声、空気の密度、夜の暗さの質感、そういったものが変わる境目。一つの季節が終わる。そんな揺らぎに、夜と朝の境界が、過去と未来の境界が、なにより先輩と章子、二人の関係値の境界までもが重なったことにより生まれた、二度と再現できない、ほかの世界線のどこにもない、美しい時間ですよね、これは。本来は、空気的にはセンチメンタルな数時間だったと思うんですが、恋愛の、というか先輩の満たされた感情が、いろいろなものを包み込み、ある種の全能感、神秘性にまで到達しており、寂寥感が無いところが面白い。

 

「あいだ」「境界」ということは、言い換えれば、どちらにも回収されない、何にも組み入れられない、今ここにあるもの、今ここにしかないもの、ということだと思います。大切なもの、美しいものだからこそ「何にも回収され得ない」と感じるのか、あるいは、何にも回収されない唯一無二なものだからこそ美しく大切に思えるのか。ここは常に考え続けたいテーマでもあります。

 

ところで先輩。先輩は頑張ったよ、ほんとうに。この物語を読み終えた人なら全員がねぎらってくれるよ。まじで。異性として、恋人として誠実に章子に向き合った。君じゃないと引き出せなかった章子の言葉や行動があったよ、きっと。他の語り手には与えられなかった変化を章子に与えたよ(別に変化を与えなきゃいけないという訳ではないのだが)。絶対みんな君のことは忘れないよ。サッポロビールで慰労会をやろう。

 

 

 

 

「ファインダー越しの、」

最初に読んだとき「わー!森島章子の観察者があらわれた!すげえ、折原みらい、か。正直な人だ。好感は持てる。」と思ってたら、途中で本当に「森島章子ウォッチャー」というそのままのフレーズが出てきたので、笑ってしまった。みらいもまた、全力で章子と対峙した人物の一人。同じコミュニティ、性別も年代も同じ、という立場ならではの角度で章子に迫りましたね。なにより、終盤の玄関ホールでの激闘がハイライトすぎる!圧巻!いや、ここは秋永先生の表現力ですが、読んでいると本当に自分もホールにいて、まさに目の前で二人の対話を見ているような感覚になるのです。気づけば当事者に「なっている」。章子やみらいの顔も、どんなつくりの顔なのか、なぜか知っている気になっている。いや、もはや「知っている」。なんだこれは。スタンド能力なのか?とかく、読み手を当事者にする力がすごいのです。ところでなんというか、みらいと章子の対話は読んでいて「殴り合い」のような感触があります。全編を通して、折原みらいは章子に対して「最もステゴロで闘った選手」という認識です。

 

 

 

「単焦点トランスレーション」

読み始めは一番ハラハラした。この会社員兼小説家は話の中で間もなく章子と接することになるのだろうが、果たして彼女にとって章子はどう映るのか?みらい以上に反感を持つのではないか?丸く収まらないのではないか?などと思ってしまったので。しかしまあ杞憂でしたね、結果的には登場人物の中で章子が一番心を開く相手になっている。小説家であることと、読者にやたら呼びかけることから、おお!作者が物語に降臨したのか!ある種の翻訳家として!と思わせてくれるのもまた面白いです。

 

 「コヅカさんは面白いのかもしれませんが、できあがる写真は同じです。他の方でも。ならば、あえて被写体に向いていないわたしでなくても大丈夫でしょう」

 呼吸が止まった。私の。まじかよ、この子……。

 

ここやばいですよね。切れ味、殺傷力。残酷な因果を躊躇なく突きつける女。もしかしたら章子は実は編集者に向いているのかもしれない。作家や編集長と喧嘩になりそうですが。いやあ、しかしですよ、それをはるかに凌駕するのが、狸小路八丁目のワインバーでの沙織と章子での魂のやり取り。敬意、畏怖、内省、好意、怒り、理解、さまざまなものを含んだ魂の交差。会話の内容が本質に切り込みすぎて、お互いに痛恨の一撃をもらい過ぎています。読んでいるこちらも血が流れます。でも、ようやく章子の写真の魅力を言語化する、世界に「翻訳」してくれる人物が現れたんだ!という喜びが読んでいてありました。第1章、第2章では見られなかった章子の新たな部分を引き出した新井沙織、さすがだ。

 

 

 

 

「ぼくのポートレイト」

これなんですけど、最初は主人公が中学生ということで、あまり話の中に入っていけないなと思ったんですよね、自分が。なんていうか、少年の観点の解像度でどこまで章子に接することができるのかな?と。しかしこれもまあ、前話と同様に杞憂でした。みつきくんは中学2年ながらも深刻に自己と世界の間の不協和音に苦しんでおり、その音を消すために自傷にまで行き着いてしまったほど、いわば「真剣(セメント)」だった。それゆえに章子を捉える眼があったのだ、と思いました。自傷するたびに世界との不和の証が刻印されてしまうのが、また痛ましいのですが…。私がみつきくんを「やるな」と思ったのは、部屋で章子に「先生は、弱い男は嫌いですか」と質問した場面で、章子が「いいえ、それが人を嫌う理由にはなりません」と答えたときに「むかついた」ところです。微塵も救われず、「むかついた」。いいね。いいよ、みつきくん。

 

そして、章子が例外的に「人を撮った」このシーン。

 

 身体をぼくのほうに傾けて、レンズを傷跡に向ける。 

「・・・・・・久しぶりだな」

 そう森島先生はつぶやいて──

 

ここ、剣豪が久しぶりに刀を抜いた、みたいな凄味がないですか(笑)?いくら中学生相手とは言え、今回は最初から最後まで達人感がすごいよ、章子。「森島章子・破」のようなものを感じます。

 

(状況は特殊ではあるものの)ついに章子が人を撮るシーンそのものが描かれた。そして、撮られた側は傷つくのではなく、自分を認め、前に進むことができた。良い意味で予想を裏切ってくれた、重要な意味を持つ章でした。

 

 

 

「露光」

いよいよ最終章です。章子の小学生時代のエピソードから始まり、ああ、ついに章子の過去が、「いったい何があったのか」が明かされるのだろうな、という予感に包まれます。みらい、沙織、先輩(の影)、みつき君...といったように前章までの人物が続けて登場するので、内心「これはまるで『導かれしものたち』のようだ!ひょっとして裏テーマはドラクエⅣだったのか?つまり先輩はライアン、みらいはアリーナ、沙織はトルネコで、みつき君はまさかのミネア&マーニャだったのか?」などと思いました。(絶対違う) 

 

後にシリアスな展開が待ち受けている空気もありながら、この章は集大成のわちゃわちゃ感もあって、笑わせてくれるシーンも多いです。章子と沙織の「会社が無断欠勤になってしまいます」「もう少し歳上の人間を信じてくれないか」とか、具体と抽象さんの「長いので具体と読んでいただければ」とか。おい、具体でいいのか?もう少し粘って「具抽」にすれば?などと心の中でつっこんでしまったり、めちゃめちゃ楽しめました。

 

そして。ついに「あの人」との再会。皆川先生は似てますよね、章子に。何が似てるかというと、おそらく事物の認識における、入力と処理と出力が、です。似てるからこそ、章子がここまで乱れたのだと感じました。彼女がこのように感情を露わにし、動揺している姿を見て、読んでいるこちらも激しく動揺してしまった!

 

しかし皆川先生はよくぞ来てくれました。そして、よくぞスマホにあの写真を入れてきてくれました。章子の展示作品を観て、世界は厳しい(恐い)ことに変わりはないが、章子が他者とのつながりの中で世界の美しさを捉え直していることをきちんと言葉で伝えてくれた。そして、あの写真は確かに刃ではあったが、刃だけではなかったのだ、なにものにも代えられない、世界の瞬間の美しさを切り取ってくれたのだ、ということを先生として、大人として伝えてくれた。

 

もし、このとき皆川先生が個展に足を運ばずに章子との再会がなかったとしたら。なかったとしても、すでに沙織やみらいたちがいるので、人を撮ることをリスタートしていたとは思います。が、やはり過去への後悔がある以上は、何度も迷いが出た(出る)のではないかと思います。この皆川先生との全力の対話ができたおかげで、今後彼女は「怖さ」をいっそう自覚しながらも、力強く踏み込んで世界を、人を撮っていけるのではないか。そのように感じました。

 

 

 

『森島章子は人を撮らない』。たしかに人を撮らない。でも、先輩、みらい、沙織、みつき。彼女に接した者たちはみんな、私たち読者に、ありありとその「生」を現像されてましたよね。

 

やっぱりそうなんだ。

 

森島章子は人を撮らない、されど人を映す。

三浦春馬のお別れ会

なぜか三浦春馬のお別れ会に出た夢を見た。

 

会場はこの世とあの世の中間みたいな空間だったので、本人も普通にその場にいて、俺もまるで旧知の間柄だったかのように話をした。彼は終始笑顔だった。間近で見ると意外と背が高かった。

 

話していたら「この世とあの世をつなぐポケットWi-Fi代わりになるから、何か小物をくれませんか?」と言われ、なぜか俺はミニカーとかキーホルダーとかそういうおもちゃをたくさんそこに持って来ていたので、いろいろ見せて、どれがいいか決めてもらった。彼はゾイドに出てくるサイ型メカ「レッドホーン」の、小さい小さいフィギュアを選んで行った。

 

いつの間にか彼は姿を消し、供養のような儀式が始まった。

出席者は祭壇のようなものに向かい合い、みんなで泣いた。

mixi日記サルベージ5

2008年08月29日の日記

タイトル: 外国語で書かれた小説の

 

外国語で書かれた小説の日本語訳の文だけが持ち得る、この唯一無二のグルーヴ感はいったい何なのだろうか。特有のリズムとうねりによって、こちらの言語中枢が揺さぶられてしまう感じ。

  

 

 

黝い球の出現は姉と弟とを激しく熱狂させた。部屋は隠れた力でみちた。それは革命部隊の生きた爆弾となり、胸を激情と愛情とで燃え上がらせたあの若いロシア娘の一人となった。

(コクトー『恐るべき子供たち』 東郷青児訳)

  

 

わたしは、再発性の、そして1959年には、ほとんど慢性化した予感を抱いているが、それはシーモアの詩が第一級のものとして、広くかなり公然と認められたとき(現代詩のコースで指定され大学の書籍部に積み上げられたとき)、大学入試準備中の若い男女がスポーツシャツを着て、一人で、または二人で連れ立って、ノートをかかえ、多少きしむわが家の玄関の戸めがけて勢いよくやってくることになるだろうという予感である。

(サリンジャー『シーモア―序章―』 井上謙治訳)

 

 

 

もともとの原文の内容がぶっ飛んでいる、訳者の文体や訳し方に問題がある、もしくは時代掛かっている、などといった点を差し引いても、これらには元から日本語で書かれた文にはない、危険なトリップ感がある。「翻訳」という特殊なプロセスを通過して生まれたこれらの文は、もはや日本語であって日本語ではないのかもしれない。

 

 

 

けれどもトニオの母親は、ピアノとマンドリンのひどく上手な、美しい、情の激しい母親には、そういったことすべては全くどうでもよかったので、忌明けを待って再婚してしまった。しかも相手はある音楽家、イタリアの名前の巨匠だった。彼女はこの人と一緒に空の青い南の国へ行ってしまったのである。トニオ・クレーゲルはこれを少々だらしがないと思った。

(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』 高橋義孝訳)

 

 

「僕、カール・ロスマンという名前で、ドイツ人なんです。僕たちはこうしてごいっしょの部屋にいるんですから、どうぞ、あなたがたもお名前と国籍を言って下さいませんか。早速まず申し上げておきますけどね、どうせ僕はずっと後でやって来たんだし、それに寝る気もないんですから、いまさらベッドをゆずってくれなんて要求はしませんよ。それからですね、僕がりっぱな服を着てるからって、気を悪くしないでいただきたいのです。これでも、僕、すっかり文なしで、どうしたらいいか途方にくれてるところなんです」

(カフカ『アメリカ』 中井正文訳)

 

 

しかし1970年には、疲れてはいるが、ひょうきんな点では疲れ知らずの英文科の教師の誰か ――それがわたしでないとは言いきれぬ、神よ助けたまえ―― が、シーモアの詩と俳句の関係はマーティニのダブルと普通のマーティニの関係のようなものだなどという大論文を書きそうな可能性がつよいので、わたしはうんざりしてくる。

(サリンジャー『シーモア―序章―』 井上謙治訳)

  

 

 

「正しい日本語」や「美しい日本語」がどうあがいても出せない、日本語の斜め上を浮遊するような魅惑的でサイケデリックな感覚。でも、それと同時に日本語という言語の芯に触れるような感じもするから、全くもって不思議だ。結局は文法構造(特に修飾方法)上の違いが産む結果だとは思うが、まあたとえそれがどうだろうと、この危ういバグ感とドライヴ感はときどき味わいたくなる。そんなときはまた日本語訳の小説を手に取るのだろう、きっと。

 

 

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2008年の日記。言いたいことはわかるけど、mixiで書くことじゃないだろこれ。だいぶ気持ち悪い人な感じになっている。

 

しかしこの「外国語で書かれた小説の日本語訳」のグルーヴ感は、100年先でも有効な気がするが、どうだろうか。期待しすぎだろうか。

mixi日記サルベージ4

2007年02月23日の日記

タイトル: なんでも感鼎談

 

今月号の文藝春秋に石原慎太郎と村上龍と綿矢りさによる三者対談が載っていた。いずれも稀に見る若さで芥川賞を受賞したという共通点を持つこの3人が、受賞時のエピソードを語り合い、簡単に文学論を交わすというもの。話の内容をまとめると、以下のような感じ。


・私たちは三人ともルックスが良い


・芥川賞の選考は意外と自由な議論ができるし、余計な政治性もないので、文学賞の中ではやっぱりいい賞だ


・十代の終わりから二十代の前半くらいにしか書けない文体があると思う。年をとるにしたがって文章の浮かんでくるスピードが遅くなる


・文学とは、読み手を不安の中に突き落とし、自身を問い質させ、そこから今ある生活を考えさせたり、何かを最初からやり直したいと思わせる力を持つものだ


・どちらかというと、今はそうした不安や居心地の悪さを残すものよりも、読後に心がきれいになるような浄化作用のあるものの方が人々に求められているような気がする


・昔に比べると、今は表現活動に向かう契機そのものがなくなってきているように思える。表現すべきことが見つかりにくい現代において、作家に残された唯一の文学的契機は自身の中の「心の揺らぎ」ではないか


・人間の精神は本質的に常に過剰であるため、この先さらに医療や科学が発達したとしても、人間は生きる上での不安や矛盾や摩擦といった悪夢から解放される日は来ないだろう。文学は、人間がこうした特有の悪夢と向き合うためのメディアとして機能し続けていくのではないか

 

なんというか、今までに何度も言われてきたことを改めてこのメンバーで分かりやすく繰り返してみたような感じの対談だったのだが、その中でも文学的契機のくだりでは比較的熱が入っていたような印象があった。やはり書き手にとっては一番切実な問題だからだろうか。
しかし、読み手としては、書き手よりも読み手の契機の方がヤバくなってきている方が問題ではないかと思った。人間がこの先も悪夢を見続けるとしても、そこで小説を読むことを選ぶ必然性はどんどん薄れていってるような気がするからだ。


ちなみに最初の「私たちは~」というのは、村上龍がひとりで勝手に言った冗談です。

 

 

 

 

その他のこぼれ話


・石原慎太郎が受賞したときは今のような受賞パーティーなどはなく、文春の社長室で賞金をもらってビールで乾杯するだけだった


・村上龍が受賞した頃は年に一度、文士劇というものがあり、文春の読者を招いて作家がシェイクスピアなどの劇をしていた


・綿矢りさは一時期ひとりで家にこもって小説を書くのが苦痛になったため、出版社に行ってデスクの一部を借り、ガヤガヤした環境の中で二ヶ月間通って小説を完成させたことがある


・石原慎太郎は今、どうしても書きたい長編小説が七本もあるが、人生が間に合わない気がする


・結局みんな、世の中に対してあまり言いたいことはない

 

 

 

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2007年2月に文藝春秋を読んだ時の感想だ。

 

「文学とは、読み手を不安の中に突き落とし、自身を問い質させ、そこから今ある生活を考えさせたり、何かを最初からやり直したいと思わせる力を持つものだ」というのは村上龍の発言だったような気がするが、これには今も深くうなずける。何度でも立ち返ってよい認識だと思う。そしてこの当時で既に「今はそうした不安や居心地の悪さを残すものよりも、読後に心がきれいになるような浄化作用のあるものの方が人々に求められている」という実感があったという事実について、考えなければならない。2018年の今日、その状況は全然変わっていないと言ってよいのか、ますます拍車がかかっていると言えばよいのか、もしくはもはや飽和しきってしまい別の方向に突き抜けた後だと言うべきか、ちょっと判断が難しい。俺は文学らしい文学に向かい合うことが少なくなったので、なおさら難しいのです。

 

そしてこの鼎談での「今は表現活動に向かう契機そのものがなくなってきている」という発言を受けて当時の俺は「読み手としては、書き手よりも読み手の契機の方がヤバくなってきている方が問題ではないかと思った。人間がこの先も悪夢を見続けるとしても、そこで小説を読むことを選ぶ必然性はどんどん薄れていってるような気がするからだ。」と書いているが、これも確かにその通りだ。2007年の俺は鋭い。俺よ、お前はその後さらに読み手としての契機を失くしていくよ、悲しいね。

mixi日記サルベージ3

2006年08月15日の日記

タイトル:お盆ですが 

 

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例によってサマソニに行ってきました。

サマソニとは、千葉は幕張で開催される都市型ロックフェスティバルです。いろんな意味でフジの対抗馬的な位置付けのフェスと言っていいでしょう。

今回、ビーチステージ(写真左)を初めて体験したのですが、これがかなりいい感じです。想像していただくと分かると思いますが、海辺で心地よい潮風に吹かれて、ビールを飲みながら音楽が聴けるというのはとてもいい気分です。未体験のかたは一度だけでも体験する価値ありだと思います。もし自分の好きなバンドが出演するのであればなおのことでしょう。フジでは味わえない開放感の一つが、確かにそこにはありました。

写真中央はアイランドステージです。前回はメッセの屋内ステージにあったのですが、今年はビーチステージそばのヤシみたいな木が生えている会場に移っていました。ここも雰囲気がよかったです。まさにアイランドという感じで、どうせなら最初からここに作ればよかったんじゃないかと思いました。コンクリートだらけのメッセの中にいるとさすがに気が滅入ってきますが、このアイランドとビーチとマリンスタジアムを交互に行き来するのであれば、意外と都市型とは言いながらも開放感にあふれたフェスとして楽しめるんじゃないでしょうか。


さて、マイベストアクトはというと、断トツで2日目のDJシャドウでした。
自分の想い入れが強かったせいもありますが、それ以上にパフォーマンスそのものが圧倒的で、思わず拳を握り締めてしまう瞬間が何度もありました。個人的に、ライブで聴いても彼の作り出すスネアとシンバルの音の響きは最高だということを確認できてとにかく嬉しかったです。弾力性や乾き具合、音の抜け方が絶妙で、なんかもう笑ってしまう程でした。聴いていると、やはり彼はキックやその他の低音を「絶対に不快に響かせない」という点で細心の注意を払っているんだな、と勝手に確信した次第です。ライブ中は近くで数人の酔っ払いがずっと騒いでいましたが、彼の音楽はそんなノイズをものともしない、確かな強度と凄みを持って全身を撃ち抜いてきたのでした。ちなみに写真右がそのDJシャドウのセットを準備中のマウンテンステージ(メッセ内)です。

 

以下、他に観たライブの感想↓


●65days of static
 CDはイマイチだったが、ライブは驚くほどよかった。
 最後にドラマーがイスの上に立ち、ドラムは叩かずに
 ひたすら踊っていたのが笑えた。


●m-flo
 盛り上げ上手。さすが売れっ子。


●EL PRESIDENTE
 名前は知っていたが、こんな楽しげなバンドとは思わなかった。
 もう1回観たい。


●カーディガンズ
 『CARNIVAL』やってくれなくて残念。


●くるり
 「TEAM ROCK」ツアーのライトハウス以来5年ぶりに観たが、
 岸田の喉の調子が本当に悪そうだった。『虹』やってくれた。


●SCRITTI POLITTI
 これも名前を知っていただけだったが、なかなかよかった。


●シャーラタンズ
 無茶苦茶かっこよかった!もはやフロアはマッドチェスター!
 フジのマンデーズといい、キャンセルのジョニー・マーといい、
 今年の夏フェスのテーマの一つはマンチェスターだったのか。


●フレーミング・リップス
 音楽もさることながら、演出に度肝を抜かれた。
 オーディエンスを襲う数十個のオレンジ色の巨大風船、
 サンタと宇宙人のダンス、炸裂するクラッカー、
 そこへ始まった『RACE FOR THE PRIZE』!!かなりハイでした。
 曲が終わるたびに「アリガトウ」と裏声で挨拶するお茶目なウェイン。
 アンコールの『A SPOONFUL WEIGHS A TON』のドラムは
 やはり生で聴いても脳を揺さぶった。


●ダフト・パンク
 リップスを途中で抜けて観に行ったら、入場規制で入れないという罠。
 またリップスに戻ってからマリンのメタリカ観に行きました。


●メタリカ
 ちょっとしか観れませんでしたが、実際に目の当たりにすると
 「うーん、やっぱすげーわ」と言うしかないような、貫禄あふれる
 ステージだった。『ENTER SANDMAN』聴けました。
 OFF TO NEVER NEVER LAND!!


●MUM DJ SET
 名の通りムームのDJセット。北欧メルヘンが感じられて、
 観てて楽しかった。
  

●TWO GALLANTS
 これが凄かった!!
 ギターとドラムのみで繰り出す、鋭く冷たく、かつ重厚感のある
 ポストパンクサウンドと、ボブディランを彷彿とさせるような歌声。
 まったく恐ろしい二人組だった。遠目では40~50代くらいの
 おじさんに見えたのだが、調べたところによると僕と同い年
 くらいなようです。


●ブンブンサテライツ
 これも5年ぶりに見たが、以前よりもギターロック寄りになっていて、
 緊張感や得体の知れなさがなくなっており、少し残念だった。


●スパルタ・ローカルズ
 名前は知っていたが、意外と、というかかなりよかった。
 新しいんだけど80年代ロックの図太さと分かりやすさを
 持っているようなバンド。ブルーハーツを感じたりもした。
 ステージでの煽りも面白く、漠然とした可能性を感じた。


●BEACH CRUSADERS IS GOOD
 ビークルとYOUR SONG IS GOODのセット。ビーチに合っていた。


●アークティック・モンキーズ
 ウワサのバンドだが、微妙だった。
 歌の節回しのリズムは面白いが、曲とかリフとかほとんど同じ感じ。
 先入観を持ってるからそう聴こえるのかな。


●MASSIVE ATTACK
 想像以上に隙のないかっこよさ。これでもかというくらいに
 キメキメだった。
 『TEARDROP』の歌声が不安定でちょっと残念だったけど、
 迫りくる音にとにかく圧倒されて、もう黙るしかありませんでした。
 彼らもドラムの音がよかった。

 

 

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フジの2週間後にサマソニに行ったんだった。これもですます調で書いてある。マイミクの中にはフェスとか知らない人もいたから、わかりやすく配慮したのだろう。それぞれの演奏については、読んでいるとまるで昨日のことのように思い出す。この年はいいメンツだったなあ。まだ洋楽が90年代的な強さを(かろうじて)引きずることが出来ていた時代か。

mixi日記サルベージ2

2006年08月04日の日記

タイトル: 先週末は

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フジロックに行ってきました。二年ぶりでした。

フジロックとは新潟は苗場で行われるロックフェスティバルのことで、広大な自然の中で一日じゅう好きな音楽が聴け、ビールも飲め、うまい飯も食えるという実に楽しい祭典です。当然、開催期間中は大量のゴミが生まれ、じゃんじゃん電気が使われ、二酸化炭素もガンガン排出されますが、それでもまた行きたくなってしまう、一年に一度の音楽の祭典です。

今年は曇ったり、大雨が降ったり、強風が吹いたり、最後にはおもいきり晴れたりして、まさにフジロックな天候でした。


左の写真は、会場の一番奥にあるオレンジコートというステージです。僕は今年初めてこのステージの魅力に気づきました。以前は隣にあるフィールドオブヘヴンというステージがフジロックのガス抜き的な位置付けだったように思いますが、今ではヘヴンに代わってこのオレンジがその機能を果たしている感じがしました。このステージがあることでだいぶ救われているものがあるのではないでしょうか。一番奥にあるというのがまたいい。

真ん中の写真はグリーンステージとホワイトステージの間にある川です。僕は毎年この川のほとりで休み、流れる水を見るのが大好きです。二年前に一度中に入って泳いだことがありますが、とても冷たかったので今年は足だけ浸かりました。水は相変わらず透明できれいでした。


さて今回観た中では、ソニックユース、ストロークス、iLL、ハッピーマンデーズ、レッチリ、電グルなどが期待通りあるいは期待以上のライブを見せてくれました。また、初めて見たOOIOO、Magnolia、ジュニアシニア、GANGA ZUMBA、OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUNDなどもかなりよかったです。

しかし、三日間を通してのベストアクトを挙げるとすれば、それは初日のアバロンのトリに出てきたマルコス・スザーノ+沼澤尚+内田直之with勝井祐二というユニットでした。とりわけ沼澤尚のドラムは凄まじいものがあり、ただただ絶句するしかありませんでした。さっそくアルバムを買いに行こうと思います。

 

 

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フジロック06の感想。なぜか小学生の日記のようなですます調で書いてある。でもこの年は雨も降ったけど本当楽しかったんだよなー。ソニック・ユースもストロークスもマンデーズもマルコス・スザーノもよかった。しかしまあ、02年はジェーンズ・アディクション、04年はピクシーズ、この06年はマンデーズ、08年はマイブラ...と、結局ゼロ年代フジロックは「90年代回顧」も大きな軸の一つだったよね、そしてそれに頼りすぎたツケが後に来たよね、としみじみ思いました。

mixi日記サルベージ1

ひさびさにmixiにログインしてみたのだが、「こりゃもういつサービス終了してもおかしくないのでは?」と思えたため、自分の過去のmixi日記をこちらに転記して、自分でツッコミを入れることにした。

 

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2006年05月23日の日記

タイトル: 生きることは、舞に似ている。

 

今さらだが、今月の『テレプシコーラ』が凄かった。千花ちゃんの苦悩っぷりというか壊れっぷりが過去最高レベルに達していた。いつかこうなる日が来るとは思っていたが、こうして実際に目の当たりにすると想像以上につらいものがある。しかし悲しいことに、彼女がさらに本格的な苦悩の道を歩むのは、まさにこれからなのだろう。


「わたしはバレリーナにならなくちゃだめ?」


この台詞が、何よりも悲しく切なかった。真意はどうあれ、彼女がついにこんな言葉を口にするところまで来てしまったと思うと、何ともやり切れない。


『テレプシコーラ』はダ・ヴィンチという雑誌に連載中の漫画で、簡単に言えば、姉の千花(ちか)と一緒にバレエを習う主人公、篠原六花(ゆき)の成長を描く物語なのだが、バレエに沿った話だけではなく、現代の日本社会に深く根を下ろしているようなリアルで重いテーマもその随所に盛り込まれており、バレエに全く興味のない人間であっても、ある種の独特な緊張感を持って読むことのできる作品である。絵柄からして、とりあえずは少女漫画に分類されると言っていいだろう。僕がこれまでに読んだことのある少女漫画と言えば、『あさりちゃん』や『お父さんは心配性』『天才柳沢教授の生活』『犬のお医者さん』といった、やや規格外な作品ばかりなのだが、初めてこの『テレプシコーラ』で少女漫画らしい少女漫画にひきこまれてしまった。ダ・ヴィンチで存在を知った6年ほど前から読み続けているが、その時から作品のテンションが全く衰えていないところが本当に凄い。


冒頭で記した千花ちゃんの苦悩は、バレエの公演中に脚を痛めたことから始まる。思い通りに踊ることができない体となった彼女は、脚を完治させるべく意を決して海外で手術を受けるのだが、なんとその手術にミスがあり、結果、舞台への復帰がさらに遠のいてしまうのである。人一倍バレエへの才能と情熱にあふれる上、自分に厳しくプライドの高い彼女は、今まさにアイデンティティ・クライシスの真っ只中。昔からの読者にとって、彼女のこうした姿を見るのが非常に切ない。最近では、少しずつ才能を伸ばし始めた妹の六花ちゃんがバレエを心底楽しんでいる姿を見て、嫉妬まじりの苛立ちをぶつけてしまう始末だ。あの妹思いの千花ちゃんが、である。マイペースで少し自分に甘いところのある六花ちゃんにとって、ストイックなクールビューティー才女の千花ちゃんは、姉でありながらずっと憧れの存在で、千花ちゃんもまたそんな六花ちゃんを可愛く思い、これまで励ましやアドバイスを続けてきたのだが、ここに来て二人の関係に不穏な変化が表れ始めている。こうした今の状況は、あらゆる意味で余りにも残酷だ。方法はどうであれ、読者は千花ちゃんが再び自信を取り戻し、舞台の上で優雅に舞う姿を望んでいる。間違っても、失意の末に壊れてしまった千花ちゃんが六花ちゃんを昼ドラばりに苛め抜くという展開は避けて欲しい。(なんとなくそうなる気もするが)


実は、この漫画には二人の姉妹だけではなく、同年代の様々なライバルたちが登場する。その中に、貧困、アル中、児童虐待、狂気といったへヴィな問題を抱える家庭に生まれ育った、須藤空美(くみ)という凄まじい少女がいる。『テレプシコーラ』の最終兵器と噂される彼女は、どういうわけか最近ストーリーに全く姿を見せないのだが、彼女には皆が度肝を抜くような劇的な再登場をすることを願ってやまない。


そういったわけで、山岸先生、どうかあと10年は連載を続けて下さい。

 

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どうやらダヴィンチ2006年5月号か6月号に掲載のテレプシコーラを読んだときの感想のようだ。

 

「あと10年は連載を」と綴っているが、残念、君の願いは叶うことはなかった。この年のうちに第一部が終わり、その後再開された第二部も3年くらいで終わってしまった。

 

そして「千花ちゃんが六花ちゃんを昼ドラばりに苛め抜くという展開は避けて欲しい」と書いているが、この後の展開はそんなレベルではないんじゃよ...