mixi日記サルベージ4

2007年02月23日の日記

タイトル: なんでも感鼎談

 

今月号の文藝春秋石原慎太郎村上龍綿矢りさによる三者対談が載っていた。いずれも稀に見る若さで芥川賞を受賞したという共通点を持つこの3人が、受賞時のエピソードを語り合い、簡単に文学論を交わすというもの。話の内容をまとめると、以下のような感じ。


・私たちは三人ともルックスが良い


芥川賞の選考は意外と自由な議論ができるし、余計な政治性もないので、文学賞の中ではやっぱりいい賞だ


・十代の終わりから二十代の前半くらいにしか書けない文体があると思う。年をとるにしたがって文章の浮かんでくるスピードが遅くなる


・文学とは、読み手を不安の中に突き落とし、自身を問い質させ、そこから今ある生活を考えさせたり、何かを最初からやり直したいと思わせる力を持つものだ


・どちらかというと、今はそうした不安や居心地の悪さを残すものよりも、読後に心がきれいになるような浄化作用のあるものの方が人々に求められているような気がする


・昔に比べると、今は表現活動に向かう契機そのものがなくなってきているように思える。表現すべきことが見つかりにくい現代において、作家に残された唯一の文学的契機は自身の中の「心の揺らぎ」ではないか


・人間の精神は本質的に常に過剰であるため、この先さらに医療や科学が発達したとしても、人間は生きる上での不安や矛盾や摩擦といった悪夢から解放される日は来ないだろう。文学は、人間がこうした特有の悪夢と向き合うためのメディアとして機能し続けていくのではないか

 

なんというか、今までに何度も言われてきたことを改めてこのメンバーで分かりやすく繰り返してみたような感じの対談だったのだが、その中でも文学的契機のくだりでは比較的熱が入っていたような印象があった。やはり書き手にとっては一番切実な問題だからだろうか。
しかし、読み手としては、書き手よりも読み手の契機の方がヤバくなってきている方が問題ではないかと思った。人間がこの先も悪夢を見続けるとしても、そこで小説を読むことを選ぶ必然性はどんどん薄れていってるような気がするからだ。


ちなみに最初の「私たちは~」というのは、村上龍がひとりで勝手に言った冗談です。

 

 

 

 

その他のこぼれ話


石原慎太郎が受賞したときは今のような受賞パーティーなどはなく、文春の社長室で賞金をもらってビールで乾杯するだけだった


村上龍が受賞した頃は年に一度、文士劇というものがあり、文春の読者を招いて作家がシェイクスピアなどの劇をしていた


綿矢りさは一時期ひとりで家にこもって小説を書くのが苦痛になったため、出版社に行ってデスクの一部を借り、ガヤガヤした環境の中で二ヶ月間通って小説を完成させたことがある


石原慎太郎は今、どうしても書きたい長編小説が七本もあるが、人生が間に合わない気がする


・結局みんな、世の中に対してあまり言いたいことはない

 

 

 

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2007年2月に文藝春秋を読んだ時の感想だ。

 

「文学とは、読み手を不安の中に突き落とし、自身を問い質させ、そこから今ある生活を考えさせたり、何かを最初からやり直したいと思わせる力を持つものだ」というのは村上龍の発言だったような気がするが、これには今も深くうなずける。何度でも立ち返ってよい認識だと思う。そしてこの当時で既に「今はそうした不安や居心地の悪さを残すものよりも、読後に心がきれいになるような浄化作用のあるものの方が人々に求められている」という実感があったという事実について、考えなければならない。2018年の今日、その状況は全然変わっていないと言ってよいのか、ますます拍車がかかっていると言えばよいのか、もしくはもはや飽和しきってしまい別の方向に突き抜けた後だと言うべきか、ちょっと判断が難しい。俺は文学らしい文学に向かい合うことが少なくなったので、なおさら難しいのです。

 

そしてこの鼎談での「今は表現活動に向かう契機そのものがなくなってきている」という発言を受けて当時の俺は「読み手としては、書き手よりも読み手の契機の方がヤバくなってきている方が問題ではないかと思った。人間がこの先も悪夢を見続けるとしても、そこで小説を読むことを選ぶ必然性はどんどん薄れていってるような気がするからだ。」と書いているが、これも確かにその通りだ。2007年の俺は鋭い。俺よ、お前はその後さらに読み手としての契機を失くしていくよ、悲しいね。