mixi日記サルベージ5

2008年08月29日の日記

タイトル: 外国語で書かれた小説の

 

外国語で書かれた小説の日本語訳の文だけが持ち得る、この唯一無二のグルーヴ感はいったい何なのだろうか。特有のリズムとうねりによって、こちらの言語中枢が揺さぶられてしまう感じ。

  

 

 

黝い球の出現は姉と弟とを激しく熱狂させた。部屋は隠れた力でみちた。それは革命部隊の生きた爆弾となり、胸を激情と愛情とで燃え上がらせたあの若いロシア娘の一人となった。

コクトー恐るべき子供たち』 東郷青児訳)

  

 

わたしは、再発性の、そして1959年には、ほとんど慢性化した予感を抱いているが、それはシーモアの詩が第一級のものとして、広くかなり公然と認められたとき(現代詩のコースで指定され大学の書籍部に積み上げられたとき)、大学入試準備中の若い男女がスポーツシャツを着て、一人で、または二人で連れ立って、ノートをかかえ、多少きしむわが家の玄関の戸めがけて勢いよくやってくることになるだろうという予感である。

サリンジャーシーモア―序章―』 井上謙治訳)

 

 

 

もともとの原文の内容がぶっ飛んでいる、訳者の文体や訳し方に問題がある、もしくは時代掛かっている、などといった点を差し引いても、これらには元から日本語で書かれた文にはない、危険なトリップ感がある。「翻訳」という特殊なプロセスを通過して生まれたこれらの文は、もはや日本語であって日本語ではないのかもしれない。

 

 

 

けれどもトニオの母親は、ピアノとマンドリンのひどく上手な、美しい、情の激しい母親には、そういったことすべては全くどうでもよかったので、忌明けを待って再婚してしまった。しかも相手はある音楽家、イタリアの名前の巨匠だった。彼女はこの人と一緒に空の青い南の国へ行ってしまったのである。トニオ・クレーゲルはこれを少々だらしがないと思った。

トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』 高橋義孝訳)

 

 

「僕、カール・ロスマンという名前で、ドイツ人なんです。僕たちはこうしてごいっしょの部屋にいるんですから、どうぞ、あなたがたもお名前と国籍を言って下さいませんか。早速まず申し上げておきますけどね、どうせ僕はずっと後でやって来たんだし、それに寝る気もないんですから、いまさらベッドをゆずってくれなんて要求はしませんよ。それからですね、僕がりっぱな服を着てるからって、気を悪くしないでいただきたいのです。これでも、僕、すっかり文なしで、どうしたらいいか途方にくれてるところなんです」

カフカアメリカ』 中井正文訳)

 

 

しかし1970年には、疲れてはいるが、ひょうきんな点では疲れ知らずの英文科の教師の誰か ――それがわたしでないとは言いきれぬ、神よ助けたまえ―― が、シーモアの詩と俳句の関係はマーティニのダブルと普通のマーティニの関係のようなものだなどという大論文を書きそうな可能性がつよいので、わたしはうんざりしてくる。

サリンジャーシーモア―序章―』 井上謙治訳)

  

 

 

「正しい日本語」や「美しい日本語」がどうあがいても出せない、日本語の斜め上を浮遊するような魅惑的でサイケデリックな感覚。でも、それと同時に日本語という言語の芯に触れるような感じもするから、全くもって不思議だ。結局は文法構造(特に修飾方法)上の違いが産む結果だとは思うが、まあたとえそれがどうだろうと、この危ういバグ感とドライヴ感はときどき味わいたくなる。そんなときはまた日本語訳の小説を手に取るのだろう、きっと。

 

 

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2008年の日記。言いたいことはわかるけど、mixiで書くことじゃないだろこれ。だいぶ気持ち悪い人な感じになっている。

 

しかしこの「外国語で書かれた小説の日本語訳」のグルーヴ感は、100年先でも有効な気がするが、どうだろうか。期待しすぎだろうか。